自分でやります=他人を信頼していない=他人は何もしてくれない=恨み節
防備録としても含めて
長年こんな言葉を発してきましたよ無意識というのか何かの流れで常に。
自分でやる 自分がやらないと生きられない 自分でメシを食えるようになれ
自分で決める 自分の判断 自分は悪くない 自分は良い人だ 自分は誤っていない
自分は正しいことを話している 自分が生きていないと他人も生きられないから自分が生きる・・・・
などなど。みなさんもありますか?自分はと。
「無意識で」こういう言葉を他の人にしているものですから、他人は自分の鏡 こういう返答があったのですよ。当時なんでこんなことを言うのかなぁ変だなぁと思ったものです。
自分でなんて言わないでください 私だっているじゃないですか
自分大好き人間なんだね 自分のことばっかり 君が良ければ全ていいのか
なんて自分を否定される言葉をよく言われ、揶揄されたりもしたことに怒ったりもした記憶があります。
助けを求めた時に自分で解決しろと言われたりもしてショックも受けたんだと思うので自分でやりますと人に何も言われないように防御力を高めてきたというわけでしょう。
まあ、、半分ノイローゼというか病気傾向なんでしょうが、これは他者との関係を全否定しているという事がひらめきました。今更なんですが。他人を否定すると自分を否定される。
その他人の否定は個々の昔からの記憶に基づく判断、それが言語として他人に発せられている。私の場合
6月21日の新月を境に新しくこれをやらないことに決めた事が一つあります。
それは「「自分でやります」と人に言うことを辞めること」」です。
「自分の判断で」とか「自分でやります」と言う事の人との関係では、人を存在他人を前提としているけれども、まず一番に特に家族、亡くなった兄弟を前提としているので
「いつまでたっても彼らが何もしてくれないので自分でやります」という意味で
「その他自分の周りに関わってる多くの人たちが何もしてくれないので自分でやります」
つまり、相手が他人が何もしてくれないので自分がやりますと言ってることと同じ意味で
「恨みの気持ちが入っている」と分かったからです。
自分でやります=他人を信頼していない=他人は何もしてくれない=恨み節
ですから結果として明るい感じの関係協力的な関係がなく自分でやるならどうぞ私は知りませんという冷たい感じの関係だけが残ったという風に思っていますので6月21日夏至新月この日を境にして自分でやりますということは言わず、もう自分の中に取り込まれてしまって自分の中にある状態、「自分はふと思ったら人にやりますやりませんということも言わずに」自分の中で飽和した状態で生活していくことにしましたそれが新しい自分になる新しい環境を作る大地のエネルギーになると確信しています。
昨晩寝てる時にソルフェジオ417hz 変容 を聞き3時間。。ヘッドホンです。
だんだんその音階の中にハマっていく。その前段階ではあれこれと思い起こすことの多いこと多いこと。。。いまだに亡き父、亡き先祖が私幼少時代に言った言葉、情景、ぶん殴りのシーンをこれでもかこれでもかと見せられます。(苫米地英人先生言うには、「脳は騙して大事だと思わせるものを見せている」的な話をされます書籍で)大事なことはそこではないのに、大事なことだと思わせるので何度も何度も役に立たない昔の暴力シーンを見せられる。情景も音も怒鳴り超えも再生されるので臨場感があがり、抜けようにも深みにハマっていく。自己洗脳をしているわけです。そこには未来はありませんので、望みとする情景イメージをリアルに思い浮かべ、例えば式典で受賞トロフィーを受取り感動して涙を三粒左目から流して「皆さんのおかけでこの証を取れました!」と泣きながら話している。音楽はショパンで、だれだれが右から三番目にいる、上から五番目にはあの人がいる。。。というところまで彫り込んだイメージ動画を、脳が勝手に見せるあの動画に変わり流すのだそうです。。変容についてでした。