バカの壁「芸術はお金のある人しかできないんだぞ」
こんばんは。身体建築士です。
春めいてまいりました。
最近はとても静かに仕事をすることができています。
バカとは話すな というびっくりする言葉があります。バカの壁。これを地で行く方が世の中うまく行くみたいです。
計画は着々と実行中です。
さて、またバカの壁の話。
タイトルは私が高校生くらいでしょう、なぜか父親と進路の話をすることになり母もいましたが、その中で
芸術はどうなの という言葉が出ました。
なぜなら、小学生から高校生迄 算数数学社会理科などは普通なのにいつも「図画工作」は良いだったから母親としてもその系統に才能があるのではないかと思ったのでしょう。
しかし、開口一番父親のこれです。
「芸術はお金のある人しかできないんだぞ」
この言葉の意味を長年考えました。もちろん、親が学費を出す以上親が反対する学校には行くことは憚れます。殴られるとか出ていけとか、もう学校は行かなくていい明日から働け等と17歳くらいで成績が悪いわけでもないのに言われる可能性が多分にあったからです。
「芸術」その時代だと岡本太郎氏でしょうか。芸術は爆発だ!と破天荒な行動をしているのもテレビで流れていたようです。その前にゴッホだとかそういう文化展の開催もないド田舎では芸術?芸事よりもメシを食えるようになれということ、つまり漁師なら学校なんか行かなくていいから 漁船を運転して魚を取ってこい 農家なら穀潰し扱いされます。
さて、私見ですが以下バカの壁に感情抜きで挑んでみたいと思います。
芸術
技術
言葉で見ると、これは術の一つであるようです。
英語ではART 、TECHNOLOGY と空間性と歯車のような合理的な機械の対比を想像させます。
バカの壁の自分なりの解答です。自分で納得してこの壁は塞いでしまいます。
術を「学ぶのに」学校に行き学費を払って学ぼうとするからお金がないとできない事になります。
学校に活かせるのに「役に立たない学問」を学ばせて自分のメシを食えないようでは困るから言うのです。
フランスに絵画芸術留学をして、そのままルンペンになって一文無しとなり食えなく野垂れ死にした日本人画家が多数いたとかいないとか・・・・
絵の具を買う金はどうするんだ。 画板はどこで買うんだ。
とまたカネカネカネの話ですすめるから「お金持ちしか芸術ができない」となんとかかんとか言うわけです。
私は芸術芸事に行こうなんて一言も行っていなかったのですが、学校へ進学という話題だけでこれでした。
そこから芸術をやる人は違うのでしょう。
術を学ぶのにもし絵の具と筆があれば芸術ができると考えるなら、それを買って自分で描いてみる。
画板を自作する。絵の具は花から作り出す。田舎もので自然に溢れていて良いんですよ、こんな地域は日本中探しても他にはありませんと校長先生はおっしゃいましたが、そうなると、石器も自分で作ることもできる、絵の具も、筆も、なんでも作ることができる。
芸術はそこからがスタートなんだと思うようになりました。
出来た物は
芸術作品
です。
親ばかりではなく、自分が芸術やものづくりを志向してこなかったのはベクトルが向いていなかったわけです。
芸術について哲学的に学んだこともありますが、なんか絵の描けない人が絵から受け取る印象をカントの理性を用いて論じている、これは美学というものでした、ように感じて、テストにそれを描いたら不可になりましたw。
私は図画工作は良いだったので、書道や小中高レベルですが授業で作成したものはほとんど特選や少なくとも佳作だったりしたわけですが、それを才能とか自分で伸ばそうというよりも、「算数理科社会などの他の成績が良くないとならない」と戦々恐々、悪いテストの用紙はベッドの下に隠していたりしたものです。後日たくさん見つかって怒られた幼少時代w戦々恐々として勉強を視力を落としてまでして普通の成績だったので、そのへんはあまり得意ではないということでこのブログも読みにくいでしょう。涙) でも作家になるにはなんて本を買っては「模写する」とあれば、島崎藤村やらを書き写したりしたりしていましたがw他に同じ方はいませんよね?(^^)?
脈絡なく結論を書くと
(学校に行って学ばないと芸術ができない)はバカの壁です。
ホリエモンが寿司職人についてツイートしていたのかな?寿司のコメを握るまで5年、ネタを握るまで7年 客前に出るまで10年とかいうのは「低賃金労働をさせるための都合の良い話で奴隷」。寿司学校で学べば半年で握れて出せるでしょう、という話。同意します。寿司技術がほしいなら10年も貧民労働を下働きなどとして過ごすよりも、借金をしてでも半年で技術の基本を学び、お客さんに出して「お客さんのニーズを自ら知ること」がマーケティングだったり技術改善だったりしますかね。寿司職人は研鑽を日々する必要があるならお客のニーズに対して自分の技術を研鑽するべきて、店の運営を潰れるかもわからないところで修行として経営を学ぶ(近江の商人なら別ですが)よりも、経営は寿司経営のノウハウをお金を出して学ぶほうが良いでしょう。
私も白米と缶詰のまかないで月25日働いて生活保護並みかそれ以下の給与で国保支払いできずなど経験していますから・・・・同じような古い型はもういらないように思います。
芸術 は話術もそうでしょう。寿司のように三次元が前提ではない訳ですから、過去未来、理想、宇宙、観念、天、神、仏までも森羅万象を対象にするとらえどころがつかみにくく自分で決めて進めないとならないような気がします。だから逆に学校に行くなら目的というか自分の対象とする分野を見つけに行くためくらいのほうが良いのではないかと思うところがあります。もし二十歳ころの私に藝術進学の可能性があったら、技術ではなく対象を定めるために学校に行くように言うでしょう。
芸術大学に行くというのはどんな気持ちなのか。。。
シアターセンターなどで若いピアニストがコンサートを開いています。あの方々は、青年になりどうなさっているのか。
そう思ってしまいます。今は筆で似顔絵描きしますという露天のような商売はなかなかうまく行かないのかわかりません、実用性と芸術性が兼ね備えられていれば誰しも認めるのでしょうが、そこには感覚的な満喫感、何かイメージできる崇高さというような言葉にすると陳腐はなばたしい突き抜ける何かがあってこそなんだろうと思います。
今日も一日お疲れ様でした(=^・^=)
明日も良い一日になりますように。