抹殺は社会が行うもの。意志の中に立法が建てられない人は。
こんばんは。身体建築士です。
今日は2018/12/28、役所納めとなりますね。
電車はいつもよりかなり空いていました。半分くらいでしょうか。ということは「半分の人は休んでいる」ということで間違いないでしょう?か。
月曜日は混み混みで、火曜からは空いています。不思議ですね。
週に3日で月給30万円の元セクハラ厚生省職員が、医師の誘致に強いということで茨城で再雇用されましたね。
人格よりも他のために役立てる役職があるからです。○○世に憚るとはよく言ったもので、あの東名高速道路のあおりの人間も平気で生きていて、人を殺しておいてその後もあおっていたという事実もあります。セクハラしても県に不毛の医師を誘致できるとなれば、高給になるわけです。
社会って不思議ですね。
倫理の世界では、カントという哲学者が「汝の意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という超絶有名な人間人格の根底について語っています。 たまたまこのリンクがめに入りましたので貼っておきます。https://blog.goo.ne.jp/kajitetsuya/e/64643e65d163d1652f23a46e9c7a32bd
ここにも哲学者がいますね。こんなことを考える人間が同じくスマホを操り、スイカを使ったりしている中にいるわけです。どうしてこんなことが起こるんでしょうね。私もそのうちの一人です。金にはなりません。
普遍的立法の原理として という超絶な哲学的命題に対して、人を殺めてその重大さに自分の判断基準の中で「人を殺すべからず」という立ち位置を確率できないとなれば、一定の保養期間を経て「抹殺」となります。つまり死刑です。普遍的立法は、「汝人を殺すべからず」というモーゼの十戒がそこに出てきます。抹殺は社会が行うものですから、社会の構成をしらなければならないですし、殺人やあやめることがなぜ社会的に否とされているのかを自分の理論で確立しないとならないことを要請されています。社会の中に生きているのですから、「頭を使って」「わからなくても考える」ことが猿とは違う人間に生まれながらに要求されているということです。
社会の立法として自分のしている行為が法律として成り立つように行為しなさい
とんでもない命題です。
腹が減ったからピザを食う。これは普遍的立法の原理になるのでしょうか?
健康という点からどうなのか。
健康医学者はこれを考えて自分の考えが法律であるべく実践しないとなりません。
メガビタミン主義ならばそれを自ら実践する。薬一辺倒なら薬をどんどん飲む。油がいいなら油をどんどん食べる。
医学者は自分でこれをしてこそ立法として成り立ち、後世に医学の改善を推し進められるのではないかと思います。テキストやプロトコルに準じて誤診をしている場合ではないかもしれません。
体が弱って来院しているマッサージ希望の患者に対して「乳首を触る」などはこれに反しているわけです。
乳首を揉めば、不定愁訴が治るのでしょうか?
もしそうならば「普遍的立法」になっており、医者も女性を見たらすぐに乳首を治療と称して触っている時代が16世紀からあって叱るべきです。
世界精神という言葉があります。
もし大きな人間を誘導している世界精神という流れがあるならば、これは「確実な治療方法」になっているはずですが、そうなっていません。
これは「治らないから」ダメと世界精神に認定されているからです。
どうぞ、ご自分の行動は世界精神や社会の立法として成り立つものなのか確認しながら日々過ごしてください。
電車の中で怒鳴り散らすことは社会のためではないですね。
それは個人の問題ですから、パンチングボールでも殴っていればいいんです。
今日も一日お疲れ様でした(=^・^=)
あしたも良い一日なりますように。