zizoozの日記

時代との葛藤かもしれません。特別に何か殊勝なことを言いたいわけではなく、自分自身の実際の体験と若干の倫理的な思考、憤りや悔恨、葛藤を経て若い人に参考になることが記述できれば嬉しくもいます。工作、作為、捏造、虚偽ナシのライブでの葛藤から生まれた静観と倫理的なアティテュードを書けていれば半分満足かもしれません。友達大募集しています。逐一返信しますので遠慮なく意見ください。意見がほしいです。

高速道路あおり 理想的なボクの世界

こんばんは。身体建築士です。 どうもまだ風邪が収まらない様子です。みなさんはいかがですか?? 高齢者に関わる仕事をしていると、思うことがあります。 高齢者よりも若い人と関わることがほとんどなくなるということ。関わる若い人は職員スタッフや業者さんになります。かといって仕事後に女性のいる店に行くような給与は出ません。なんとか賞与で保っているというような感じになります。 ですから、忙しいと感じはしますが、活発な感じはどうしてもあるとは言えません。 長にしても「他の高齢者という人生の先駆者」と比べて、「単なる偉そうな小人物」に見えてしまうことも多々あります。 高齢者ともなれば、65歳の子供がいる、卒業式、入学式は経験していたり、子供が自分よりも先に逝った人、頻発する利用者親族の訃報に毎年呼ばれるのは葬式だというその年代による現実、、膝が痛い、手術してものすごい手術跡がある(内科手術は切開が広く長かった当時でしたから圧巻です。今は内視鏡的手術で縫い目はあまりなかったりしますが)。また兄弟で生きているのは私と弟だけだ、など人生の集大成が利用者さんの人世に詰まっています。 65歳の息子がいる95歳の淑女がいたりしますから、この白髪の太めの腹が出ていて「偉い称号」が付いている人も利用者から見るとコドモになるわけです。利用者の視点から見れば、65歳ともなれば体がガタガタであることもあるだろうが、まだまだ全然元気で働けるだろうということになって、その年代の部長がいるとしても「無性に頑張ることが当然」となってくるわけです。本人もそういう気持ちになっているでしょう。 どんなことも些細なものと感じられる雰囲気があります。 もちろん相談したりすることはしませんが、 私はよく、例えば財布を買いたいなと思った時に財布の話など聞いたりします。  事業をしていた人は「10万円あって、10万円の財布を買って中身に何もないのであれば商売ができない。財布は1万円位にして残りは商売の資金にしてそれで稼ぐべきだ」という話を聞いたり、「財布はたくさんあるね。お種銭は入れているよ。財布ばっかりで肝心な現金はないな」と笑ってはなしされていたり、ワニ革の財布はもっていたことありますかと聞くと、やっぱりあまり無いみたいですね。 若い頃の話を聞くと、いろいろと思いがあったり、経験という言葉ひとつで語れないような事故にあっていたりされている方も多いようです。大学を卒業している方はあまり多くなく、中学を卒業して働く方がその当時普通だったようです。(ですから、私の父なんぞも、中学を卒業してすぐに働かせようとしました。かなり強烈でしたね。なんのために高等学校に行くのだ-高校ではなく「高等学校」と!-と親としては当然でしょうが、行ったことがないと純粋な疑問として聞いていたんでしょう) ある方は中学を出て工場で働いていた時に、ワイヤーが外れて自分の腰に引っかかりそのまま天井まで引っ張られて私は気絶していた。血が垂れていたそうです。そのため腰を悪くして手術して鉄板が入ってしまった。その後事業を起こして交通事故にあい交通刑務所に入った。刑務というんですよね、とそれ以上聞けない話のすれすれまで聞いたりします。80歳くらいの方で大学を卒業している方は恵まれている家庭といえます。女性は中学を卒業して洋裁学校というパターンが目立ちます。洋裁裁縫は女性の肉体労働ですから、男性の鉄工場、重機工事現場作業なとと同じなのでしょう。 高齢者と関わる仕事で得られるものは、確かに安い賃金ではありますがその他、同年代では決して聞くこともできない経験談、時代の深さを知る等でしょう。哲学的な時間の複層を得られると思います。 あなたの同年代を聞く前に、私の同年代だとどうでしょうか。 三十歳頃には「給与が○○万にようやくなった」「視察という名で遊びに行っている」など突然飲みに行かないかというサラリーマン特有のノリで呼び出され、私の話を聞くわけでもなく自分の給与や出世の話ばかりされていましたから、私は聞き役に徹していましたよ。これがサラリーマン流の飲み会かと思ったものです。つまらんので、もう呼ばれても行かなくなりましたけども。 私は同年代の人たちとは異なる道に進んできましたから、例えば銀行に努めていたかもしれない自分はもう25年前には存在しなくなったわけですし、大手一部上場企業に就職を断った時点ですでに、部長や次長など出世街道は捨ててしまっていますし、その流れでいまなら、こういう車を買って、一軒家を買って・・・想像できることは架空の物語になってしまっています。 実際にその流れを自分の実態で生きていないので、現時点と架空のストーリとを比べてしまうこともありますが、憧れの一軒家を買って、車を買っていたとして、あの高速道路あおりのようなこともなかったとは言えません。どちらが幸せであるのか、今があればやり直しができたり、修正できたり挑戦できたりするということは、現時点での絶対的な真実です。 架空のストーリでは「自分がそれを望んでいる」ポイントを紐繋いでいくことになり、子供が先天的疾患である、などということや、あの新車で事故を起し半身不随になっている、というようなことは微塵にも思わないわけです。 現実での介護関係の仕事と架空の一部上場企業でのサラリーマンを比較しても仕方ないという話ではありません。仕方あるんです。どちらの可能性も自分の挑戦、改善は絶対的な真実としてあるということで、現実の具体的な事柄、細かいことは「過去の事実」であり、架空の一部上場企業の具体的なことは「希望的理想」。過去の事実からの分析は可能で、成功例、失敗例、成功要因失敗要因の分析ができますが、架空の一部上場企業では成功例、失敗例がありません。しかも理想的なボクの世界でしかないので、先天的疾患のこどもが生まれることは想定できないからこそ理想的なボクの世界であるわけです。 単純に働き過ぎて心臓を悪くして手術していたかもしれませんし、何があったかわかりませんし、元気で取締役になっていたかもしれませんし何も確定はできません。時代の読みも似たところがあるのかもしれません。理想的なボクの世界の延長が次の時代、新年であってほしいですが、現実的な予見・分析がいるのかもしれません。 となると、現実の過去は事実ですから、過去の分析を通して、改善をしてゆくことが現実の生きている僕の世界の実現へ方法ということになるのです。 今日も一日お疲れ様でした(=^・^=) あしたも良い一日なりますように☆